何故今、診療所の医療なのか

kamikouchi

2006.09.30.上高地 田代池にて

何故今、診療所の医療なのか

東御市立みまき温泉診療所 倉澤 隆平

 

医学部を卒業したのは昭和38年でした。今も、医師不足で病院の産婦人科が閉鎖され、お産が出来なくなったとか、医療界は問題山積ですが、当時は、もっと医師不足の上に、多くの医師が患者さんの方を向かずに、研究至上主義とかで大学に籠もり、全国の病院は全く発育不全で、もっともっと問題山積の時代でした。そこで、大学改革を一生懸命やったのですが、一朝一夕に改革できる筈もなく、昭和45年大学を出、長野県で仲間達と病院作りをして来ました。それから、三十有余年、病院発育不全は解決しましたが、今度は病院が鬼子に成長しつつあります。

私は医師として、現代は医療幻想の時代にあると思っています。1950年代の後半から現在までに、医学・医療はとても急激に進歩発展しました。特に医療では、基礎科学や工学、薬学等々の医学の周辺の科学や技術の進歩にも支えられて、医療の技術爆発と云ってよい程の急激な発展がありました。私は医師として、丁度この爆発の時期を身をもって体験しましたが、例えば、そのほんの一部分である輸液法の進歩だけ見ても、それがどれだけ医療の現場を激変させたか、一般の人は勿論のこと、経過を知らない若い医師達に実感として伝えることは殆ど不可能です。こうして、確かに、昔は治すことができなかった多くの疾病を治せるようになり、医療の発展が社会に大きく貢献したことも事実でしょう。

しかし、一方、その変化が余りにも急激であったためか、今、一般の人は「総ての病気は治るもの」との幻想にまかれ、医療人、特に医師は「総ての病気は治せるもの」との幻想に、更に、「治さねばならぬ」との強迫観念に取り付かれてます。例えば、急性脳症という殆ど致命的な病気で、子を亡くした親はそこに必ず医師の過誤があったはずと訴訟を起こし、また、例えば、医師は老化現象をも治さねばならぬと数々の薬剤を投与し、果ては、死に臨むと適応について思考停止して、一分一秒、単に生命を伸ばそうと科学的、医学的にキュアの医療を推し進め、科学万能という非科学的思想に侵されていることに気付きません。

しかし、六十兆もの細胞が整然と協働して、八十年余も維持し続けるヒトの恒常性(ホメオシターシス)の謎に比べて、科学的.医学的に判っていることなんて、“ほんのちょっぴり”と言えましょう。医療とは、この生物のホメオスターシスに支えられて、ほんのちょっぴり判っている知識を駆使して、ホメオスターシスの“ほんの小さな狂い”を補正する程度であることを、多くの医師がうっかり忘れてしまっているのです。如何に医学が進歩し、医療の技術が進んだと言っても、アンプロワズ.パレの『我包帯し、神これを癒したもう』の言葉に変わりはなく、そこを今、医師も一般人も間違えてしまっています。

診断や治療の技術(器械や設備)が、確かに病院に集積しているので、今や患者も医師も病院指向であり病院の時代のようです。しかし、幻想から覚めて考えてみれば、大部分の放置しても自然に治る疾病やいわゆる成人病等の、コントロ-ルは可能だが治すことのできない疾病を除くと、本当に、キュアの医療が必要な病気は少ないのです。中には、自然の経過を医師の手でねじ曲げられて、かえって不幸な経過を辿ることさえも、多々生じてきているのも現実です。

高齢社会が進み、コントロ-ルすべき慢性疾患、老化による障害を抱えるお年寄りが増えて、人生の最後を人間として如何により良く生きて頂くか、そして、如何により良き死を支えてあげられるかが、医療のますます大きな課題となっているとき、一人一人に福祉をも含めて肌理細かい対応をする、診療所のケアに重心を置く医療が、社会にとって今最も必要な時と私は思うのです。診療所の医療はお年寄りばかりではありません。若人もお年寄りも、病気の時は勿論、健康な時でも、その地域で人々がよりよく生きて行くために、医学的医療的な支えが必要の時、何時でも必要とされる医療です。勿論、病院のキュアの医療も必要です。しかし、医療の最終目標は、病気を除くことではなく、一人一人が如何によりよく生きるかを支えることだと私は思っています。

大学や病院の医師として、院長として、診療所の医師として、臨床に四十年余にわたり携わり、そして、診療報酬審査委員会医科部会長として、長野県の医療、日本の医療の現状をよく知っている者として、大変不思議に思うことは、多くの人が自己や周りの素人判断で、大病院を目指して右往左往していることです。例えば、何か重要なことで裁判に訴えようとの場合、弁護士にも相談せずに、しかも、地裁では心許ないから高裁に訴えた方がいいなどと同じことが、医療の世界では日常、普通に行われていることです。

医療で一番大切なことは、心でしょうか。そして、適切な判断、つまり人です。しかし、大きな建物と器械と人の数を信じて、コンピュータで打ち出された大病院の検査データを大事に抱え一喜一憂している病院教の信者が多いのが不思議でなりません。