写真展 ヒトの目とカメラ

『写真展』

『ヒトの目とカメラ』

 

【ヒトの目は脳でものを見る】
ヒトの眼球はよくカメラに喩えられる。しかし、ヒトの目は網膜に結像した、物理的光を脳で見ている。普通にカメラで捕らえた映像とヒトの目で見る像の根本的な違いである。
その違いにハッと気が付いたのは、教養学部でのガマの解剖であった。二体目のガマの腹を開き、神経系の観察の実習書に従って、内蔵を観察しだして、愕然とした。神経が電線のごとくびっしりと走っているのが見えたのだ。目の前にあるガマの内臓は一体目と殆ど同じもので、当然、一体目の時も、そこに神経はあったのだ。『ヒトの目は見ようとしなければ見えない』。カメラの画像と根本的違いである。ヒトは同じものを見ていても見ようとしなければ、観察眼の鋭さがなければ、見えない。カメラは全て映し出す。
それから半世紀。デジタルカメラ.オリンパスμを手にし、更に、キャノン kiss EOS で、写真を撮り始めて、ヒトの目の素晴らしさ、人間の素晴らしさつくづく感じつつ写真を撮っている。
また、当然、カメラの素晴らしさも。そんな目で、今回の写真展をまとめてみた。

 

【何で写真を撮るのか?】
大きく二点にまとめれば、①事実の記録と②感動を何時までも保持して、繰り返し感動したい、と言うことになるだろう。何れも記録と言えば記録であるが、①は医師という仕事柄で、患者さんの創や瘡などの治癒して行く、経過を着実に追う写真の記録性で、写真の最も一般的機能である。②は、ヒトの目で見た感動:美しさ、すごさ、豪快さ、可憐さ、豪華さ、嬉しさ、貧しさ、汚さ、醜さ、悲惨さ、悲しさ、もう書き尽くせないが諸々の感動を写し取り、それを自分自身で、時には他の人ともその感動を共有して味わいたいと言う、大げさに言えば、こんなことになるのだろうかと思う。しかし、その感動をそのままに写真ではなかなか撮影して、表現できない。それが現実である。そう、脳で見た、その感動を、その時の物理的な光だけの像で表そうというのだから無理なんだ。そこで、いろんな工夫をすることになる。脳で見たままなんてとても無理だが、何か加えて、出来るだけ近い感動として残せれば、と思って写真を撮っているのではないだろうか?

 

【脳で見ると言うこと】
同級会が開かれる。この部屋だ、と思って入ったら、なんと、ご老人達の集まっている部屋だ。部屋を間違えたか!!と思ったが、やはり、自分の同級会の部屋だった。同じ経験あるのでは?そのうちに皆の顔がジワーッと昔の顔に変化して行く、如何ですか?
ヒトは【自分自身の顔を自分の目で直接には見られない】と言うことうっかり忘れて、自分をよく見て、知っている気分でいるが、他人の目に見える客観的な自分の顔を見てはいない。だから、大抵客観的な自分より若い自分の顔を脳は見ている。自分の顔は多くは鏡で見る。その時、鏡に映る自分を脳で見ながら、修正して見ている。顔の筋肉を引き締め、目に力を込めて等々である。 だから、僕は自分の写真は嫌いである。特に、酔っぱらって、顔面筋が弛緩して、目も鏡で引き締めた目でないトロンとした目の写真を見ると、エエーッ、俺はこんなに老人なのかと愕然とする。 俺はこんなに年寄りでなかった筈だがと思う。

 

【美人は苦手】
私は職場でもその他日常でも男として大変幸運なことに、多くの美人に囲まれて生活している。美人とは姿形もだが、やさしさ、チョットした気の強さ、頭の良さやおっとりさ、温かさにクールさ、朗らかさに静粛さ等々や教養や考え方やそれまでの人生からの諸々が、個々人に備わって、一人一人の美人が存在している。だから、周りにいる、知っている美人を写真に撮るのは苦手である。物理的な光を写し取ったフィルムには、僕の脳の中にある美人の姿を映し出すことは、まだ出来ない。イヤ、永遠にカメラでは写せないだろう。どう写真を撮ってみても不満足なのである。僕の頭の中にあるもっともっと美人なのである。【痘痕もえくぼ】とは、古人も脳で見てること知っていた。

 

【峠の写真も苦手】
ヒイヒイ言いながら、山道を登り、パッと視界が開けた、峠の景色、感動しない人は少なかろう。ましてや、好天気で、遠くまで見晴るかされ、その先に富士山でもハッキリ見えれば、その感動は一塩である。しかし、写真に撮ってみると案外パッとしないのである。
脳は、山道の苦しさ、辛さ、そしてホッと解放された気持ち良さ、そんな体全体の経験の記憶を刻み込んだ上に、ヒトの目は、ボーっと霞んだ周辺視覚の広い視野に、その見るポイントを近景から遠い遠い遠景まで、それぞれのポイントに次々に焦点を移動し、確認つつ、その空間の雄大さ素晴らしさを脳に記憶、実感させつつ、更には遠くに見える富士山までピントを移動させた合成の映像を全てまとめて、見て感動したのだから、なかなか一枚の写真でその感動を表現することは至難の技となる。あの感動とは比べものにならない写真。あの時の景色はもっと雄大で、富士山はもっと、もっと大きく見えていたのにと思うが、写真では富士山は画面のほんの一部に、芥子粒の如く、チョピッと写っているのみである。こんな現実の風景を浮世絵では、富士山を橋桁の下に囲ったり、鳥居で囲ったりして、その感動を伝えているのだと思う。

 

【落語に感動して、師匠をぱちぱちやったが】
必要のもの、感動するものが大きく見えるのは、山々の景色の写真を撮ってみてよく経験する。 冬の朝、澄み切った空気に、すっかり雪化粧した遠くの山々の美しさに感動して、何枚も写真を撮った。だが、大抵はがっかりする。あれほど高く聳えて見えた山々が画面の下にへばりついている。花火もそうである。漆黒の闇にぼんぼん上がる花火はとても大きく感じられる。しかし、写真に撮ると多くは線香花火を見るかのごとくである。落語の名人となると流石に芸がそうさせるのだろう。寄席の後ろの席で見ていても、その姿はとても大きく見える。下手な落語家のなんと小さく見えることか。相撲然り、野球また然りである。

 

【犬は臭くて叶わないのだろうか?】
ヒトの目は脳によって、常に見たいものに焦点を合わせ、必要ないものをボーっと霞ませることにより、ヒトにとって必要なものをハッキリ認識し、なお且つ、周辺の状況も的確に捉えることを常にやっている。例えば、テレビを見ている時、その周辺はボーっとしか見えていない。目を遠くの時計に転じれば、目の前のテレビの画面はボーっとしか見えない。しかし、それを意識せずにヒトの目はやっている。ヒトの目とは、ヒトの脳とは、そして、人間とはなんと素晴らしい生物かと思う。
もし、記録写真のフィルムようにヒトの目が何もかも克明に見えたら、脳もその情報量の多さで、キッとダウンしてしまうであろう。人間も疲れ果ててしまうのかも知れないし、肝心なものをしっかりと認識できないに違いない。話は少し横道にそれるが、犬の臭覚はヒトの数千倍であると言う。されば、犬は色々な臭いで臭くて叶わないのでは?と考えたことありませんか。だがきっと、犬の鼻も、ヒトの目と同じく、不必要な臭いをカットしているのだと思う。生物とはなんと素晴らしいのかと思う。

 

【電線を取り除いて欲しい】
ボーっと見えるだけでなく、写真を撮るようになって、気が付いたことがある。電線のことである。日本では素晴らしい景色に感動して、写真を撮ろうとすると電線が邪魔で邪魔で、どうしても写真にならないことが多い。出来れば、電線を切ってしまいたいと思うことがしばしばである。
例えば、この会場を出て、お好きな風景を写真に切り取ろうと、試してみていただければ気が付かれるだろう。日本全国どこに行っても電線、電柱のない景色を切り取ることは至難の技である。だが、殆どの人は日頃電線を全く意識に止めていないと思う。ヒトの目は必要のないものを、あの神経繊維と同じく、消去さえしているのだ。すごいことと思う。

 

【でも、またカメラもすごい】
普通のカメラに対しての、ヒトの目のすごさのもう一つは光量に対する幅の広さである。写真で困るのは光量不足である。素晴らしい感動の夕暮れの景色、なかなか思うようには撮れない。
如何に感度を上げても一般のカメラでは限度がある。しかし、これを逆手にとって、写真は漆黒の闇の花火を重ね撮ったり、移動のぶれを入れて躍動感を出したりして、ヒトの目の感動以上の感動を作り上げることも出来る。特殊な機能を駆使したり、アダプターを加えたり、画面構成を工夫したり等々で、ヒトの目球や目で出来ない記録を、感動を表現することが出来る。新しい発見をしつつ、楽しんで写真を撮ろう。その画像を鑑賞するのも、また、ヒトの目、脳なのだが。